昭和52年10月29日 朝の御理解
御理解 第21節
「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」
お互い信心をさせて頂いておるけれども、果たして家の光になっておるだろうかと。果たして教会の中の光とも思われるような信心が出来ておるだろうか。まず私はそういう家の光になれれるくらいな信心が出来なければ「世界が闇なり」と仰る様な、世界を照らすような光には到底なれないと思う。まず家内に、主人に子供に、本当に信じられるというか、いわゆる家の光に「お父さんは家の光だ」と「家の人は本当に家の光だ」とこう家内から言われたり、思われたり、子供からそう信じられる信心を、まず頂かずして、世界の光になれようはずはありません。
本当に、光になるような信心というのはどう言うような信心を言うのだろうか。昨日は、竹葉会でしたから、本当に終日でしたけど、色々信心の共励をさして頂きました。もう日が暮れよるのも気が付かんくらいでした。中で文男先生ところの家内、良江さんが発表しておるのを聞いてから、本当に感心致しました。今度の記念祭を頂いて、色々感じたことやらの発表があっておりましたが、中で良江さんが発表致しますことを、もう本当に文男さんの信心がもう躍如としておる。
私本当に素晴らしいなあと思いました。もう二十日ぐらい前からあの人は御用にかかってます。二十日というよりもっと前かも知れませんね。簾なんかのあんな御用の注文もあったですから、丁度一月くらい前だったでしょうか。展示会を、呉服屋さんですから致しております。大変お繰り合わせを頂いて、家内に言っておることが素晴らしいです。「もう今度の展示会でね、一生俺達が食べて行くだけはおかげ頂いた」ちゅう。(笑)「だからもうこれからは惜し気悪し気なしに御用さして頂くぞ」と。
もう本当に、それに良江さんがほとほと感心してるんです。もうこれは皆さんもご承知のように、手綱を一ちょ間違えたら、どげなふうに取り逃がすやら分からんと言う様な感じですよね。良江さん若い時から。なかなかどうしてもうあの言うなら、女性を乗りこなすだけでも大したことです。もう完全にお父さんが言うことならもう絶対というものを感じさせておるということです。家の光になっておるわけです。
そこでなら皆さんが、文男先生の日頃の信心をね、それこそ皆さんもよく知っておられるから、見て見らなければいけない。ということなんですよ。第一言う事よりも実際の方が、真実味があるということです。言うておることよりか、実際に行なうておることの方が、表よりも裏が素晴らしいということです、この人の場合。そりゃ、そげなおかげ頂くなら誰でんそげなふうに出来るごとあるけれども、実際は出来んです。出来んからおかげ頂かんとです。
もうそこのスキッとしたものの見方、考え方というものがね素晴らしいです。そりゃ大祭前なら大祭前に、却っていろんな意味でお繰り合わせ頂きゃ誰でも御用が出来る。出来るです。それもすっきりした御用が出来るです。そして実際に、その展示会からこっち、あの人が打ち込んで御用を頂いておる、これは目に見えるところ、見えないところ、皆さんが、言うならば、ご覧の通りです。目に見えないところでもやはりおかげの頂き頭だったでしょう。
目に見えるところにおいては、しかもそれが本当に、こがしこしましたなんていうもんじゃなくて、もう何というでしょうかね。言うなら、今日の御理解から言うとです。「芯がなければ火がともらぬ」と仰る。その芯があるです彼の場合は。芯ということは勿論、真になる芯です。家の中の芯になる。心です。真です。ああいう信心が段々育って行ったら、言うならば、「夜は闇なり」とおっしゃる。言うならば、世間の光とも育って行くおかげが頂かれる。
まあ言うならば家の光であり、教会の光としてのおかげを頂いておると言う事で御座います。第一ね、言う事よりか為すことの方が堅実に出来て行くと言う信心が素晴らしいですね、文男先生の場合は。まあ「真似が出来ん」と言やあそれまでです。それにはね、ただ今のままでは真似が出来んです、皆は。ですからどうすりゃ真似が出来るかと言うとです。そういうふうに思えない。そう言う事が出来ない。
何がそれを障害、邪魔になっておるかと言う事を、やはり思うて見て、自分のここの所がという、改まらなければならない所を、改まなければ真似は出来んです。今のままでは、言うなら、真似かぶりになってしまうです。そうでしょうが。真が違う。だからその真が出るためにです。私共が改まらにゃいかんです。じいっとなら文男先生がやること言うことを、見たり聞いたりしておるとです。そしてそう言う様なことをですね。ならちらっとも出しませんですね。
私昨日嫁さんから聞いてから、成程おかげ頂くはずだなと思いましたんです。だから、そういう心がけの上に、願いが持たれるところに神様がもう、なら一年分の言うならば生活費は頂いたぞと言う様なおかげが受けられると思うんです。「そりゃそげなおかげ頂くなら誰でん出来る」と言うて出来んです。それこそ頂いた上にも頂こうというような心は出来てきてもです。そこにスキッと、それから先をもう、こう、何ちゅうでしょうかね。もうスキッと我情我欲を捨てとるです。
「一年分の生活を頂いたぞ」と、「さあもうこれからは記念祭に掛けることだけしかない。本気で一っちょ打ち込むぞ」とこう言う訳です。「本当に御大祭じゃけん」ちゅうて、もう真似方のごたる御用に出てくる人たちがありますが、そしておかげだけは非常に頂きたい頂きたいと思うとる人たちの私は薬にしたい程しに思いますね。そして自分が御用頂いたごたるつもりでおる。これは改めて文男先生の信心をもう一つ、私共も頂き直さなきゃならない。
そしてどこが違うか「なら、一つ真似しよう」では、真似かぶりになりますから、結局、なら今のままでは真似が出来んのだから、まずだから改まることに自分の言うならば、言うたりしたりしておることを一遍思うてみてです。成程実のないことを言いよるなあと。実のない御用だなと。本当にそういうスッキリとしたものがないなと。いうふうに頂いてです。改まって、そういう一つの事柄に取り組むという場合であっても、取り組む姿勢がまず出来なければいけないと私は思います。
これはもう金光様の信心する者の全部が言うことですよ。記念祭でも仕えんならんというと、「御用が頂きたい、御用が頂きたい」と皆が言います。けれども、その辺の所のね、スキッとした具合というものが違うようです。そのスキッとした、我情我欲を放し切った姿というか、御用一つにでもです。本当に思いが、芯があるかないか、真があるかないか、表はキンキラキンのごとしとったっちゃ裏の方には言うならば、汚れたものを着ておるような状態ではないかと。
表よりもむしろ裏を大事にすると言う様な生き方が自分には欠けておる。そこに言うならば、性格と言やそれまでですから、その性格が、言うなら体質改善と言う様な事が言われますけども、まず体質改善というのは、改まらなければ体質改善のことにはならない。「形だけの真似なら出来るけれども、心の真似が出来ん」と言う事になる。そして言うなら実意の人、そして実意の行いというものが出来て来る様になる。
そういう裏表を、なら子供やら、家内やらはちゃんとそれを見て行きますから、「もう家のお父さんには感心」「もう家のお父さんがすることだけは間違いない」家の者にも信用されんようなことでは、本当に金光様の御信心を頂いて、本気で稽古をしておるということは言えない。まず一つ、家の光にならせて頂けるような信心を目指しなさい。そして教会の光ともならしてもらう様なおかげを頂く。そこからそういう光が集まって初めて世の光ともなるのです。
そういう光がなからなければ、本当に「世界は闇なり」。そういう人がいかに少ないかと言う事が判ります。どんなに形の上で出来ておっても、芯がなからなければ火はともりません。「おかげが頂けん、おげが頂けん」と。今日私が皆さんに聞いて頂いたような果たして芯があるかないかと言う事なんです。成程これでは火がともらない筈だと言う事ろを気付いたならばです。
なら「今日から真似しよう」と言ったって出来る様な事じゃありませんから、まず改まることから始めさしてもろうて、そこから出て来る芯に火がともるおかげを頂かしてもらいたい。皆さんも知っておられる通りですから、文男先生が言っておることしておることの信心を、こう検討しながら、文男先生のこげんところに、自分たちの及ばないものがあるなと。私はあの人が完璧だという意味じゃありません。それが今あの生き方がいよいよ育ったときが本当のもんでしょう。
けれどもなら、あれだけ言うなら難しい家内ですけれども、その家内が、もう主人の言う事になら、絶対のものを感じておると言う事は、何時もの話でよく皆さんが知っておられる通りです。まず自分の伴侶であるところの、家内とか主人とかに信用されれる間違いのない私にならせて頂く。そこに家の光ともなる。そして、教会の光ともなるような信心が出来てくる。
しっかり、お互い信心の稽古をさして頂いておりますから、おかげで油は一杯、言うならばあるのかも知れません。もうここにその芯が一つあれば、火がともるという程しの人が合楽には沢山おられると思います。そこで、もう一遍芯を確かめる。そして成程これでは火がともらないはずだというところを判らして頂いて、信心の稽古をさして頂きたいと思うですね。
どうぞ。